被写体になるということ

私のお世話になっているお友達に写真を趣味にされている方がいる。私は彼女の写真の構図、センス、角度、さまざまな面から彼女の写真が好きだ。いつも機会があるごとに彼女のサイトを見てはアップされた写真をみて彼女の写真に対する女ごころを伺っている。何が彼女の写真の一番好きなところか?て言われると被写体と出来上がってきた紙との間に流れる空気だろうか。彼女の写真には彼女が撮ろうとしているイメージとそこの現実に置かれている被写体の中に時(トキ)が流れている。私はそこが好きなのだ。そして腑としたところから、今度は彼女の被写体になるといった思いがけない出来事がおこった。

いつもクリ子からOyumichenはいつも目をつぶっているか表情が硬いか、それか連写してもすべてが同じ顔をしていて撮りがいがないと言われていたので彼女には、”ほんまに私、自然な顔ができへんえ!クリ子にモデル失格ってレッテル貼られてるぐらいやし・・たぶん撮るの苦労すると思う・・・”と伝えておいた。

Image1.jpg実際、彼女に撮られている間、四六時中、目が泳いでいたり、ひきつり笑いをしていたりと彼女を困らせてばかりだった。彼女自身、人を撮るのがほとんど初めてということもあり、お互いが照れと緊張と遠慮で思うような構図が撮れない。

Image2.jpgImage6.jpg被写体になってみて、初めてわかること。それは自分がどうやって撮ってほしいか?心からそれを写真に願いを込めること、そしてその世界に一瞬でも入り込めるかだ。なかなか邪念が消えず、恥じらいと共にぎこちない、心ここにあらずといった私の心の描写がそのまま写真に出てしまい、彼女を悩ませた。

Image5.jpgやっぱりお互いの信頼関係なしではいい写真は撮れないのだと実感した一瞬。そして被写体になることの難しさを実感した一日だった。今後も彼女と一緒にお互いがお互いの思うような写真が撮れるように試行錯誤しながら撮りつづけていくことになった。

折角こんな機会を与えてもらったのだから今度、被写体になる時はせめて恥じらいを捨ててその時、その時に集中できるように心がけたい。